【有料・言いにくい話】「好きにしなさい」は、教育ではない。
自由化が進む学校で、できない子ほど静かに置き去りになる
こんにちは。地理おた部です。
学校で最も心配なのは、授業中に騒ぐ生徒でも、提出物を出さない生徒でもないのかもしれません。
何となく授業に参加する。
友達と話し合う。
インターネットで調べる。
スライドを作る。
発表をする。
振り返りを書く。
そして、ある程度の評価を受けて、次の学年へ進んでいく。
一見すると、きちんと学んでいるように見えます。
ところが、本人に説明を求めると、肝心の内容を理解していない。
資料を読めない。
基本的な用語がわからない。
根拠と感想を区別できない。
前の学年で学んだはずの知識が、ほとんど残っていない。
それでも、「何かをした」という事実によって、学習は成立したことになってしまう。
私は、この状態が最も怖いと思っています。
わからないまま、怒られることもない。
できないまま、失敗として扱われることもない。
困っていることに本人も周囲も気づかないまま、静かに進級していく。
それは本当に、生徒に優しい教育なのでしょうか。
今回の記事は、「自由」を考える3回連載の最終回です。
第1回では、自由には選択・比較・競争・自己責任がついてくることを書きました。
第2回では、自由な学びが、塾、家庭教師、文化体験、家庭の情報量など、学校外の格差を増幅する可能性について考えました。
第3回となる今回は、では学校はどうすればよいのかを考えます。
昔のような管理教育へ戻るのではない。
すべてを生徒任せにするのでもない。
自由を奪わず、できない子を置き去りにしないためには、どのように学びを設計すればよいのか。
学校ではなかなか言いにくい話を、最後まで書きたいと思います。
「選ばせること」自体が悪いわけではない
最初に、誤解のないように書いておきます。
私は、生徒に選択肢を与えることへ反対しているわけではありません。
むしろ、自分で選べることには、明確な教育的価値があります。
Patall、Cooper、Robinsonが41件の研究を統合したメタ分析では、選択肢を与えることは、内発的動機づけ、努力、課題成績、有能感などを高める傾向が確認されました。自由や選択は、正しく設計されれば、生徒の意欲を高める力を持っています。
重要なのは、自由を与えるか、与えないかではありません。
どのような自由を、どの段階で、どれだけの支援とともに与えるかです。
同じメタ分析では、選択の効果は条件によって変わり、特に「2~4回程度の選択」など、選択が扱いやすい形で与えられたときに効果が強くなる傾向も報告されています。無数の選択肢を投げ出すことと、意味のある範囲から選ばせることは、同じではありません。
「自由に決めていいよ」
この一言だけで、教育が主体的になるわけではないのです。
自由か、指導か。その二択が間違っている
学校では、ときどき次のような対立が生まれます。
教師が教えるか、生徒が自分で学ぶか。
ルールを決めるか、自由にさせるか。
知識を教えるか、探究させるか。
管理するか、任せるか。
しかし、この二択そのものが間違っているのかもしれません。
Jang、Reeve、Deciは、アメリカ中西部の公立高校133教室、9~11年生1,584人を対象に、教師の「自律性支援」と「構造」が生徒の参加にどう関係するかを調べました。
ここでいう自律性支援とは、生徒の考えを尊重し、選択の理由を説明し、本人の意思を大切にすることです。
一方の構造とは、何を目指すのか、どのような手順で進むのか、何が求められているのかを明確に示すことです。
分析の結果、自律性支援と構造はどちらも、生徒の行動面での授業参加を予測しました。論文のタイトルは、その結論を端的に表しています。
「自律性支援か構造か、ではない。自律性支援と構造である」
自由と枠組みは、反対ではないのです。
これは、学校の自由化を考えるうえで非常に重要な研究だと思います。
生徒の意思を尊重する。
しかし、何をしてもよいわけではない。
選択肢を与える。
しかし、どこへ向かえばよいかは示す。
自分で進ませる。
しかし、迷ったときには支える。
自由と指導は、どちらか一つを選ぶものではありません。
両方が必要なのです。
文部科学省も「個別最適な学び」だけを単独で進めるのではなく、「協働的な学び」と一体的に充実させることを求めています。文部科学省の解説でも、個別最適な学びが「孤立した学び」に陥らないようにする必要性が示されています。政策上も、「一人で好きに進ませること」が個別最適な学びなのではありません。