「水不足なら節水すればいい」と、私は生徒に言い切れない
黒板に、
「水不足 → 節水」
と書く。
とても分かりやすい授業です。
雨が少ない。ダムの水が減る。このままでは水が足りなくなる。だから、一人ひとりが水を大切に使う。
何も間違っていません。
私自身、水不足のときに節水が必要ないと言いたいわけでもありません。歯磨きの間に水を流しっぱなしにしない。シャワーを必要以上に使わない。できることを少しずつやる。そうした行動には意味があります。
それでも最近、この矢印一本で授業を終えることに、少し迷うようになりました。
今週、愛知用水の水不足について調べていたことがきっかけでした。
8月には愛知用水で節水対策が実施されました。
資料を見ていて、改めて目に留まったのは、単に「節水してください」と書かれているのではないことでした。
農業用水。水道用水。工業用水。
それぞれが分けられ、節水率も同じではありません。
考えてみれば当然です。
私たちが家で使う水と、田畑で使う水と、工場で使う水は、同じ「水」でも使われ方が違います。
なのに「水不足」というニュースを聞いた瞬間、私の頭に最初に浮かぶのは、やはり家庭の蛇口です。
「水を使う」と言っても、同じではない
たとえば家庭で水の使用量を少し減らすとします。
お風呂やシャワー、洗濯、食器洗いなど、生活の中には工夫できるところがあります。
では農業用水ならどうでしょう。
田畑では、作物を育てるために水を使います。必要な量や時期は作物や地域によって違いますし、「今日は節水だから使わない」というだけでは済まない場合があります。
工業用水も同じです。
製造、洗浄、冷却など、水が生産活動の中に組み込まれているところがあります。
ここで私は、一つの数字が気になるようになりました。
「10%減らす」ことは、本当に全員にとって同じことなのだろうか。
数字だけなら同じ10%です。
でも、その10%を減らしたときに起きることは同じではありません。
家庭なら、生活の中で少し工夫できる10%かもしれない。
農業なら、作物を育てるうえで重要な水かもしれない。
工場なら、生産のやり方そのものに関わる水かもしれない。
もちろん、実際の水利用はもっと複雑です。
だからこそ「節水」という一つの言葉だけでは、その違いが見えなくなることがあります。
「みんなで少しずつ」で、本当に公平なのか
「みんなで少しずつ我慢しましょう」
これも、とても使いやすい言葉です。
公平に聞こえます。
全員が同じように負担すればいい。
でも地理を教えていると、私はこの「同じように」という言葉を以前より気にするようになりました。
同じ距離。
同じ時間。
同じ金額。
同じ10%。
数字が同じだからといって、意味まで同じとは限りません。
今週の愛知用水の記事でも、愛知県で使われる水を考えるために、長野県の水源まで地図をたどりました。
水を使う場所と、水が生まれる場所さえ一致しません。
さらに、その水を生活に使う人、農業に使う人、産業に使う人がいる。
すると水不足は、
「水を無駄遣いしないようにしましょう」
という道徳的な話だけでは収まらなくなります。
誰が、どこで、何のために水を使っているのか。
水が少なくなったとき、その負担を誰が引き受けるのか。
そこまで考えなければ、水不足という問題の一部しか見ていないのではないか。
私は、そんなことを考えるようになりました。
ここから先では、私がなぜ「節水は一人ひとりの努力です」と授業で言い切りたくないのか、家庭の善意だけに問題を戻すことへの違和感、そして「正しい行動」を教える教師として失いたくないものについて書きます。
