【有料・言いにくい話】自由な学びは、強い子をさらに強くする
塾・家庭教師・海外経験・文化資本が、学校の外から差をつける
こんにちは。地理おた部です。
前回の記事では、「自由は本当にいいものなのか」という話を書きました。
自由は、明るい言葉です。
校則の自由化。
学習の自由化。
進路の自由。
自分らしく生きる自由。
どれも、古い学校の管理や理不尽なルールから生徒を解放する言葉のように聞こえます。
もちろん、私は自由そのものを否定したいわけではありません。
理由の説明できない校則で生徒を縛る必要はありません。教師がすべてを決め、生徒がただ従うだけの学校に戻る必要もありません。生徒一人ひとりの興味や関心、個性を大切にすることは、これからの教育にとって重要です。
しかし、自由には別の顔があります。
自由には、選択がついてきます。
選択には、比較がついてきます。
比較には、競争がついてきます。
そして、その競争は、全員が同じ条件で始められるわけではありません。
今回の第2回では、この話を学校の学びに引き寄せます。
テーマは、「自由な学び」です。
自分でテーマを決める。
自分で問いを立てる。
自分で調べる。
自分でまとめる。
自分で発表する。
自分に合った方法で学ぶ。
一見すると、とてもよいことです。
でも、ここにも言いにくい現実があります。
自由な学びは、学び方を知っている子には翼になります。
しかし、学び方をまだ知らない子には、足場のない空中に放り出されるようなものになることがあります。
自由な学びは、すべての子を平等に伸ばすとは限りません。
むしろ、条件が整っている子をさらに伸ばし、条件が整っていない子を置き去りにすることがあります。
ここが、学校ではなかなか言いにくい話です。
「自由に学んでいいよ」は、本当に優しい言葉か
学校でよく聞くようになった言葉があります。
「自分でテーマを決めましょう」
「興味のあることを調べましょう」
「自分に合った方法で学びましょう」
「自由に表現してみましょう」
どれも、前向きな言葉です。
教師が一方的に教えるのではなく、生徒が主体的に学ぶ。知識をただ覚えるのではなく、自分で問いを立て、考え、表現する。これは、これからの社会に必要な力だと言われます。
私も、その方向性自体には賛成です。
しかし、「自由に学んでいいよ」という言葉は、本当にすべての生徒にとって優しい言葉なのでしょうか。
すでに学び方を知っている子にとって、その言葉は解放です。
自分の興味がある。
調べ方を知っている。
本やインターネットを使える。
文章を読める。
発表ができる。
家庭で相談できる。
必要なら塾や家庭教師の助けを受けられる。
失敗してもやり直せる余裕がある。
こういう子にとって、自由な学びは大きなチャンスになります。
自分でどんどん進めることができるからです。
では、そうではない子はどうでしょうか。