「車に乗ればいい」で終わらせたくない 地理教師が“移動できる人”を前提にしたくない理由
地理の授業で交通を扱うとき、地図はとても便利です。
高速道路がどこを通っているのか。鉄道がどの都市を結んでいるのか。新しい道路ができれば、移動時間がどれくらい短くなるのか。
線を引けば、交通網は目に見える形になります。
だから教える側も、つい「道路ができたから便利になった」「駅が近いから交通の便がよい」という説明をしやすくなります。
私自身、今週「交通空白」について記事を書くまで、交通を考えるときに無意識のうちに「移動できる人」の側から地図を見ていたところがあったと思います。
車を運転できる。好きな時間に家を出られる。多少遠くても、自分で移動できる。
この条件がそろっている人から見れば、10km先の病院も「車で15分」の場所です。
でも、免許を持たない高校生にとっては同じでしょうか。
運転をやめた高齢者なら。
けがをして、一時的に運転できなくなった人なら。
同じ地図を見ていても、生活できる範囲は同じではありません。
今週月曜日の記事では、「バス停まで300m」でも交通空白になり得ることを書きました。水曜日には、宮崎県でスクールバスや福祉施設・病院の車両まで使って、その空白を埋めようとしている実証を取り上げました。金曜日は、地図アプリから「車」を外し、病院やスーパーまで往復できるかを実際に調べる記事にしました。
調べるほど、「交通空白」という言葉は、単にバスが走っていない場所を表す言葉ではないと思うようになりました。
国土交通省の2026年の方針でも、問題として挙げられているのは移動手段の不足だけではありません。
家族が送迎を担う。仕事の時間を調整する。行きたい場所へ行くこと自体を諦める。
そうしたものまで、表からは見えにくい「壁」として捉えています。
これは、地理の授業でも無視できないことだと思います。
地図の上には道路がある。
家には車もある。
だから「移動できる」。
そこで話を終えると、その車を誰が運転しているのか、その人の時間を誰が使っているのかは見えなくなります。
私は今回、そのことが一番引っかかりました。
ここから先では、なぜ私が「車に乗ればいい」という答えで交通の授業を終わらせたくないのか。そして交通空白を授業で扱うなら、どんな「正解」を教えるのではなく、何を考えてほしいのかを書いてみます。
「車に乗ればいい」は、誰の言葉なのか
地方のように、自動車が暮らしに欠かせない地域で生活していると、「車で行けばいい」という感覚はごく自然なものです。
実際、車は便利です。
無理にそれを否定する必要もないと思っています。
私自身、「地方では車社会だから」という説明をすることがありますし、それ自体が間違っているわけではありません。
でも最近、この言葉を授業で使うときに少し気をつけるようになりました。
「車社会だから仕方がない」と言った瞬間、その社会の中で車を運転できない人の存在を、説明の外へ追い出してしまうことがあるからです。
たとえば高校生です。
高校生の多くは、自分の好きな時間に自家用車を運転して出かけることができません。
遠くの学校へ行く。部活動へ行く。塾へ行く。買い物へ行く。病院へ行く。
その移動には、公共交通、自転車、徒歩、そして家族の送迎などが関わっています。
にもかかわらず、交通について考える授業で「この地域は車社会です」と説明して終わってしまえば、生徒自身が毎日経験している「移動できない」という感覚が、地理の対象から抜け落ちてしまいます。
これは少し変だと思うのです。


