「24時間は平等」という言葉への違和感 生徒それぞれの「一日の地図」を想像できる教師でいたい
「誰にでも一日は24時間ある」。たしかにその通りです。でも今週、通勤時間や生活時間の地域差を追いかけているうちに、この言葉をそのまま生徒へ渡すことに迷いが出てきました。時間の使い方は、本当に本人の努力だけで決まるのでしょうか。
地理おた部
2026.10.11
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今週は、「時間の地理」を見てきました。
月曜日は、国が約19万4千人の一日を調べる「社会生活基本調査」。
水曜日は、
神奈川県 1時間40分。
宮崎県 56分。
通勤・通学時間に44分もの差があること。
金曜日は、自分の一日を15分刻みで振り返り、地図の上に置いてみる体験をしました。
一週間ずっと「時間」を見ていたのですが、
記事を書けば書くほど、
私はある言葉が気になるようになりました。
「時間は誰にでも平等に24時間ある」
です。
たしかに、間違ってはいません。
一日は24時間です。
でも、この言葉をそのまま授業で使っていいのだろうか。
少し引っかかります。
「時間は平等です」と言えば、話はきれいに終わる
時間について話す授業なら、
こんなまとめ方もできます。
一日は誰にでも24時間。
だから、
時間を大切にしましょう。
早起きしましょう。
計画的に行動しましょう。
スマートフォンを見る時間を減らしましょう。
限られた時間を有効に使いましょう。
とても分かりやすいです。
教師としてもまとめやすい。
間違っているわけでもありません。
私自身、生徒に似たような話をしたことがあります。
でも今は、
その言葉だけで終わりたくないと思っています。
なぜなら、
「同じ24時間」と「自由に使える24時間」は、まったく別だからです。


